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寺院・霊園案内【東叡山 寛永寺】

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寛永寺公式ホームページ

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寛永寺概要の説明文


寛永寺 不忍池辯天堂の画像
 
  不忍池辯天堂
寛永寺(かんえいじ)概要のタイトルバナー
東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。詳しくは東叡山寛永寺円頓院と号します。開基(創立者)は徳川家光公、開山(初代住職)は天海大僧正、御本尊は薬師如来です。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠ります。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、(日光山、比叡山をも管轄)天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇りましたが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失してしまいました。
不忍池からの寛永寺全景
【タイトル】起源と歴史
江戸にあった徳川家の菩提寺のうち、増上寺は中世から存在した寺院ですが、寛永寺は徳川家により新たに建立された寺院です。元和8年(1622年)、江戸幕府2代将軍徳川秀忠公と、当時の天台宗の高僧・天海大僧正は一大寺院の建立を発願しました。秀忠公の隠居後、寛永2年(1625)、3代将軍徳川家光公の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊(寺僧の住坊)が建立され、この年が寛永寺の創立年とされています。当時の年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」としました。
その後、堂塔の整備には数十年を要し、元禄11年(1698年)、5代将軍徳川綱吉公の時、今の上野公園大噴水のあるあたりに本堂にあたる根本中堂が完成。この堂は間口45.5メートル、奥行42メートル、高さ32メートルという壮大な規模のものでありました。
二代喜多川歌麿「新版浮繪上野東叡山之図」 近世を通じ、寛永寺は徳川将軍家はもとより諸大名の帰依を受け、大いに栄え、承応3年(1654年)、後水尾天皇第3皇子・守澄法親王が入寺して以後は、代々皇族が御門主を務め、御門主は「輪王寺宮」と尊称され、(日光山、比叡山の山主をも兼務)絶大な宗教的権威をもっていました。
二代喜多川歌麿「新版浮繪上野東叡山之図」       
現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の旧境内であり、最盛期には、今の上野公園の2倍の面積の寺地を有していたというから、その規模の大きさが想像できます。たとえば、現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は根本中堂のあったところです。
上野の山は、幕末の慶応4年(1868年)、彰義隊の戦の戦場となったことから、根本中堂をはじめ、主要な堂宇は焼失してしまい、彰義隊の戦で焼け残り、第二次世界大戦の戦災もまぬがれたいくつかの建物は、上野公園内の各所に点在しています。
東叡山絵図
東叡山絵図(水野家文書:首都大学図書館蔵)
東叡山の盛時には、寺域36万5000坪、寺領1万1790石、子院36坊があったとされています。絵図の端裏書には「一 山衆 三十六坊 内御別当九ヶ院」と記載があり、正確な成立時期は不詳でありますが、最盛時の寛永寺絵図と思われます。
輪王寺宮
寛永20年(1643年)、天海大僧正が没した後、弟子の毘沙門堂門跡・公海大僧正が2世貫主として入山しました。その後を継いで3世貫主となったのは、後水尾天皇第3皇子の守澄法親王で、法親王は承応3年(1654年)、寛永寺貫主となり、日光山主を兼ね、翌明暦元年(1655年)には天台座主を兼ねることとなりました。以後、幕末の15世公現入道親王(北白川宮能久親王)に至るまで、皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務め、貫主は「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていました。歴代輪王寺宮は、一部例外もありますが、原則として天台座主を兼務し、東叡山・日光山・比叡山の3山を管掌することから「三山管領宮」とも呼ばれました。
歴代寛永寺貫首(輪王寺宮)
01.天海大僧正 02.公海大僧正 03.守澄法親王 04.天真法親王 05.公弁法親王
06.公寛法親王 07.公遵法親王 08.公啓法親王 09.公遵法親王 (再任) 10.公延法親王
11.公澄法親王 12.舜仁入道親王 13.公紹法親王 14.慈性入道親王 15.公現入道親王
開山 慈眼大師天海大僧正について
東叡山寛永寺の開山慈眼大師天海大僧正は、初代徳川家康公、秀忠公、家光公と3代の将軍にわたって深い帰依を受け、幕府の精神的な支えとして活躍しました。陸奥国大沼郡高田(現在の福島県会津高田市)に生まれ、豪族蘆名一族の出身といわれています。若い時から学殖も広く英才とし嘱望され、現在の川越喜多院の名僧豪海の門に入り、僧名を随風から天海に改めました。まず信長の焼き打ちで全山疲弊し切った比叡山の復興を命ぜられ、幕府の支援を得て、現在の根本中堂をはじめ数々の堂宇を再建されました。
寛永寺は当初、徳川将軍家の祈祷寺として創建されましたが(後に菩提寺も兼ねる)その造営は天海僧正により、すべて比叡山延暦寺に倣って行われています。それだけでなく、江戸庶民の憩いの場とするべく吉野の桜を取り寄せて上野の山を桜の名所とし、また不忍池には蓮を植えて放生池としました。一方、木活字を用いての経典出版という画期的な事業を行い、(天海版一切経として有名)その木活字は現在重要文化財に指定されています。
天海僧正は、寛永20年10月2日に108才という長寿を全うされました。長寿の秘訣について次のような歌を残されています。

”気は長く つとめはかたく 色うすく 食ほそうして 心ひろかれ”

”長寿は粗食 正直 日湯 陀羅尼おりおり御下風あそばさるべし”

天海僧正には、生前の功績を讃え朝廷より「慈眼大師」の大師号が下賜されました。
慈眼大師天海大僧正
慈眼大師肖像画(本覚院蔵)
開山堂(両大師)
開山堂は、東叡山の開山である慈眼大師天海大僧正をお祀りしているお堂です。天海僧正が尊崇していた慈恵大師良源大僧正もお祀りしているところから、一般に”両大師”と呼ばれ、庶民に信仰されてきました。
創建は正保元年(1644)ですが、たびたび火災に遭い、現在のお堂は平成5年に再建されたものです。
慈恵大師は正月3日に亡くなったことから元三大師とも呼ばれ、霊力で疫病を退散させたところから厄除け大師として広く信仰を集めています。
慈眼大師は法力に優れ、また108歳の長寿であったところから健康長寿のお大師さまとしても親しまれております。一方、大師による元三大師への祈祷によって4代将軍家綱公が誕生したことから、元三大師は子授け大師として広く信仰されています。
【年中行事】
  • 御縁日法要
    毎月3日 午前10時
  • 節分会
    2月3日 午後2時
  • 虚空蔵会
    4月13日 午前10時
  • 開山会(慈眼大師御祥月忌)
    10月2日 御膳10時
  • 写経会
    毎月第3土曜日 午後2時
寛永寺 開山堂(両大師)門の画像1 寛永寺 開山堂(両大師)正面画像 寛永寺 開山堂(両大師)正面から門に向っての画像
開山堂(両大師)1
開山堂(両大師)2
開山堂(両大師)3
天海僧正毛髪塔
天海大僧正は、寛永20年(1643)10月2日に108歳で示寂されました。墓所は日光山輪王寺慈眼堂御廟にありますが、當山には山内子院の本覚院第1世の晃海が供養塔を建立し、後に同院に伝来されていた毛髪を納めた宝塔も建立されました。
天海僧正毛髪塔
天海僧正毛髪塔(都指定旧跡)
彰義隊戦死の墓
慶応4年(1868)5月15日、上野の地で起こった官軍と彰義隊の戦いは約半日間続きました。彰義隊の戦死者は神田の三河屋幸三郎、南千住円通寺住職らにより荼毘にふされ、その後山内子院の護国院、寒松院住職によりひそかに墓碑が造られました。明治14年には山岡鉄舟筆の大墓石が建立されています。(現在は大墓石前に安置)
寛永寺 彰義隊戦死の墓
彰義隊戦死の墓(区指定有形文化財)
【タイトル】伽藍
本堂(根本中堂)-現在の東京芸術大学音楽学部裏手にあります。上野公園内の清水堂、辯天堂などのにぎわいに比し、本堂周辺は訪れる人もまばらです。現在の堂は、寛永寺の子院・大慈院のあった敷地に、明治12年(1879年)、川越喜多院の本地堂を移築したもので、寛永寺本来の建物ではありません。内陣には厨子内に秘仏本尊薬師三尊像を安置しています。(堂内非公開)
寛永寺 根本中堂跡地
焼野原となった根本中堂跡地
寛永寺 書院 葵の間
書院 葵の間
重要文化財 寛永寺旧本坊表門
旧本坊表門(重文)
寛永寺 清水観音堂
清水観音堂(重文)
寛永寺 人形供養塔
人形供養塔
寛永寺 不忍池弁天堂
不忍池辯天堂
重要文化財 旧寛永寺五重塔
旧寛永寺五重塔(重文)
寛永寺 時鐘堂
時鐘堂
寛永寺 在りし日の上野大仏
在りし日の上野大仏
寛永寺 現在の上野大仏
現在の上野大仏
円通寺 上野の黒門
上野の黒門(円通寺)
  • 書院-徳川慶喜公が水戸退去の前に2か月ほど蟄居(ちっきょ)していた部屋(葵の間、あるいは蟄居の間)が保存されています。
    此処は慶応4年(1868)の2月12日から4月11日まで、15代将軍慶喜公が謹慎されたお部屋です。上方から江戸に戻った慶喜公は、1ヶ月の間幕閣の議論を聴取した上で、一意謹慎を決意し、寛永寺の大慈院(5代将軍綱吉公の別当寺で現在の寛永寺の地)に入られました。なお、この部屋はかって現在の大玄関の右手に在りましたが、大正3年に現在地に移築されました。その折、あえて旧材のみを用いて再建したため、元々12畳半、10畳の2間続きであったものが、現在のように10畳、8畳の形になりました。このことは、床の間の柱や建具を見るとよくわかります。
  • 旧本坊表門(重文)-東京国立博物館東側の輪王寺にあり、寛永年間の建造物で、もとは現在の東京国立博物館正門の位置にありました。
    本坊は山主の住居とするばかりでなく、根本中堂が建立されるまでは本堂の役割も兼ねていました。元禄より4度の火災にあい、その都度復興されましたが、彰義隊の戦争により焼失、現在は表門だけが被災を免れ往時の姿を留めています。寛永年間に創建された表門は、明治以降はそのまま帝室博物館(現東京国立博物館)の表門として使用されていましたが、昭和12年に寛永寺に返還され現在の地に移築されました。門には現在でも彰義隊の戦争の際の官軍の攻撃による弾痕が数多く残り、戦争の激しさを偲ばせています。
  • 清水観音堂(重文)-上野公園内、西郷隆盛銅像の近くにあり、千手観音を祀ります。寛永8年(1631)天海大僧正により建立されました。規模は小さいとはいえ、京都の清水寺本堂と同様の懸造(かけづくり)建築です。(清水観音堂を清水寺に、不忍池を琵琶湖に見立てているといいます)御本尊も天海大僧正が清水寺より恵心僧都作の千手観音像を迎え秘仏となっています。また、観音堂裏手には人形供養塔が建立されています。
    【年中行事】
    • 御縁日法要 毎月17日 午前10時
    • 大般若経転読(秘仏本尊御開扉) 2月 初午ノ日 午前10時、午後2時
    • 人形供養大祭 9月25日 午後2時
      ※詳細は直接お問い合わせください。
  • 不忍池辯天堂-不忍池辯天堂は、天海大僧正が水谷伊勢守勝隆の支援を得て、比叡山麓の琵琶湖竹生島になぞらえて、寛永年間に不忍池に中之島を築き、その地に建立されました。御本尊の八臂大辯財天も、竹生島の宝厳寺から勧請したものです。大正時代には、伊藤忠太氏設計のもと竜宮門も建てられましたが、昭和20年の空襲により辯天堂・竜宮門は共に焼失してしまい、昭和33年に現在のお堂が再建されました。9月に行われる巳成金の日には、早朝より多くの参詣者で境内が賑わい、また右手の大黒堂では、縁日に豊太閣護持の大黒天尊前にて護摩供養を執り行い、人々の信仰を集めています。
    【年中行事】
    • 御縁日法要 毎月初巳の日 午前10時
    • 影向会(辯財天尊降天) 5月 午前10時
    • 巳成金 9月 午前10時、午後2時
    • 登天会(辯財天尊登天) 11月25日 午後2時
      ※詳細は直接お問い合わせください。
  • 旧寛永寺五重塔(重文)-寛永8年(1631)古河城主土井利勝が東照社(宮)に寄進した初代の塔は、寛永16年(1639年)に焼失してしまいましたが、同年中に再建されました。3間5層のこの塔は、1番上の第5層のみが銅板葺で、他は瓦葺となっており、高さは地上から先端の宝珠まで36m、第1層には心柱(大日)を中心として釈迦・薬師・阿弥陀・弥勒の四方四仏が祀られています。(昭和33年、動物園内にあるところから東京都に寄託)
  • 時鐘堂-時鐘堂は江戸庶民に時をしらせるために寛文6年(1666)に設けられ、現在も正午と朝夕6時の計3回、毎日時を告げています。鐘は、創建以来たびたび改鋳され、現在の鐘は天明7年(1787)に鋳造されました。
    【年中行事】
    • 除夜の鐘 12月31日
  • 上野大仏(パゴダ)-上野の大仏は、寛永8年(1631)に建立された丈6尺(約5m強)の漆喰の露仏が最初ですが、正保4年(1647)の地震により倒壊し、その後木喰上人が青銅製の2丈2尺(役7m強)の大仏を復興して元禄になると輪王寺宮公弁法親王が大仏殿を建立しました。その後もたびたび罹災し、その都度復興されましたが、関東大震災によりお首が落ち、第2次世界大戦に軍需品製造の供出令により胴体の部分は徴用されてしまい、お顔のみが残されました。大仏殿の跡地にはパゴダ(仏塔)が建立され、本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られています。
かつて存在した伽藍
  • 黒門-かつての総門です。現在の上野公園入口から噴水広場へ至る広い道の途中、清水観音堂の下あたりにあったもので、簡素な冠木門でした。幕末の上野戦争には焼け残りましたが、明治40年(1907年)、東京都荒川区の円通寺に移築され、現在は同所に現存します。彰義隊戦士の遺骸が円通寺に葬られた縁で移築されたもので、門には上野戦争の時の弾痕が多数残っています。なお、現在清水観音堂近くにある黒門は復元されたものです。
  • 文殊楼- 入母屋造重層の門。寛永4年(1627年)建立の仁王門が貞享2年(1688年)焼失した後、元禄10年(1697年)に建てられましたが、上野戦争で焼失しました。
  • 法華堂・常行堂- 入母屋造の同形の仏堂2棟を左右に並べ、その間を屋根付きの高廊下で繋いだもので、参詣者は高廊下の下をくぐって根本中堂へ向かっていました。寛永4年(1627年)、紀州の徳川頼宣と尾張の徳川義直の寄進で建立されました。
  • 本坊- 現在の東京国立博物館の敷地に在りました。正門のみが上野戦争で焼け残り、しばらくは博物館の正門として使用されていましたが、その後博物館の東の輪王寺に移築されています。博物館本館裏の日本庭園は寛永寺本坊庭園の名残りです。
     子院 (現在は以下19院)
・真如院 ・寒松院 ・林光院 ・吉祥院 ・泉龍院
・修禅院 ・現龍院 ・見明院 ・福聚院 ・本覚院
・元光院 ・東漸院 ・覚成院 ・春性院 ・等覚院
・養寿院 ・津梁院 ・円珠院 ・護国院  
【タイトル】文化財(建造物以外)
  • 薬師如来三尊像-根本中堂中央の大きな厨子に安置されている本尊薬師三尊像は、平安初期に造像された等身大の見事な尊像で、秘仏となっています。特に中尊の薬師如来は、正式には薬師瑠璃光如来といい、天台宗の宗祖伝教大師最澄上人の御自作と伝えられる霊像です。この尊像は、古くから近江の石津寺に祀られていましたが、寛永寺の根本中堂の建立にあたり當山に迎えたものです。また、左右の日光・月光の両菩薩は、同時に山形の立石寺(山寺)から迎えましたが、あたかも当初からの三尊像であるかのように見事な釣合いを見せています。さらに、須弥壇上の本尊厨子の両脇には四天王、十二神将などが祀られています。薬師如来はその名が示す通り、左手に薬壺を持ち私達の心と身体の病を癒して下さる仏さまとして、古くから広く信仰を集めています。
    (薬師三尊像は2006年3月28日~5月7日に東京国立博物館で開催された特別展「最澄と天台の国宝」に出展され、初めて一般公開されました)
  • 両界曼荼羅図-東京国立博物館に寄託。
  • 天海版木活字-開山の天海大僧正が刊行した「天海版一切経」の印刷に使われたもので、近年の調査でようやく全貌が明らかになりました。26万4,688個の活字が2003年に重要文化財に指定されています。
  • 旧寛永寺五重塔-現在の所有者は東京都。上野動物園内に現存。
  • 清水観音堂
  • 旧本坊表門-輪王寺に現存。
  • 厳有院霊廟
    • 勅額門
    • 水盤舎
    • 奥院唐門
    • 奥院宝塔
    • 浚明院宝塔、文恭院宝塔
  • 常憲院霊廟
    • 勅額門
    • 水盤舎
    • 奥院唐門
    • 奥院宝塔
    • 有徳院宝塔、孝恭院宝塔、温恭院宝塔、天璋院宝塔
寛永寺 旧本坊表門(重要文化財)
重要文化財 寛永寺 清水観音堂
寛永寺 五代将軍徳川綱吉公 水盤舎(重要文化財)
旧本坊表門 清水観音堂 5代将軍綱吉公 水盤舎
根本中堂
根元中堂は第五世公弁法親王の発願で天美大僧正の滅後の元禄11年(1698年)に5代将軍綱吉公が建立し、その本堂は壮麗雄大なことで江戸第一の建物といわれ、東山天皇から「瑠璃殿」の勅額を賜りました。しかし、慶応4年(1868)彰義隊の戦争の際に、根本中堂など多くの建物は焼失してしまいました。現在の根本中堂は、明治12年に川越喜多院の本地堂(寛永15年(1638)3代将軍家光公が建立)を山内子院の大慈院(現寛永寺)の地に移築し、彰義隊の戦争で焼失を免れた寛永寺の本地堂の用材も加え再建され、御本尊の薬師如来(伝教大師御作)が安置されています。
正面にかかる「瑠璃殿」(東山天皇御宸筆)の勅額や、境内の二つの大水盤は戦火を免れ、創建当時の面影を今日まで伝えています。また境内には、4代将軍家綱公御霊廟の梵鐘や、當山中興の学僧・慈海僧正の墓、わが国最初の講義を伴う公開図書館「勧学寮」を設立した名僧・了翁禅師の塔碑や坐像、その他、虫塚など多数の史跡があります。
【年中行事】
  • 御縁日法要 毎月12日 午前10時
  • 了翁会(了翁禅師御祥月忌) 5月22日 午後2時
  • 伝教会(伝教大師御祥月忌) 6月4日 午前10時
  • 天台会(天台大師御祥月忌) 11月24日 午前10時
  • 施餓鬼会大法要 春秋彼岸・盆(7月)
寛永寺 根本中堂 寛永寺 根本中堂 寛永寺 根本中堂内陣
根本中堂 門前 根本中堂 堂前 根本中堂 内陣
徳川将軍ゆかりの名刹

寛永寺は、徳川将軍家の祈祷寺として発足しましたが、やがて菩提寺も兼ねるようになり、将軍の御霊廟が造営されることとなりました。當山には6名の将軍(4代家綱公、5代綱吉公、8代吉宗公、10代家治公、11代家斉公、13代家定公)の霊廟がありますが、将軍霊廟の様式は初代家康公のものから時代によりかなりの変化があり、4代家綱公の時に廟を含めた様式が完成し、それは7代家継公まで続きます。霊廟の霊とは、御本尊、位牌、将軍肖像を祀る霊殿部分で、二天門、勅額門、鐘楼、水盤舎、井戸屋形、中門、廻廊、拝殿、相之間、本殿、透塀、仕切門、装束所、を含み、更に仕切門を出ると廟(墓域)になり、そこには唐門、拝殿、中門(鋳抜門)、宝塔がありました。その後8代将軍吉宗公の時に、綱吉公の廟の1部を拡張して、廟部分だけを造り、位牌等は綱吉公の霊廟に合祀して霊殿関系の一切の建物を略したため、以後幕末までこの様式が受け継がれました。霊廟様式では、宝塔はお墓ではなく、将軍は宝塔内に安置されている御本尊の足下で安らぎの眠りにつくという考えから造られています。ですから、鋳抜門の内側はその仏さまの極楽浄土であり、それゆえ門扉に松竹梅や亀甲繋ぎなどの瑞祥紋が附けられています。なお、この家康公以来の歴代将軍霊廟は、天海大僧正の指導により、この宝塔を中心に天台宗の根本聖典である法華経の思想に基づいて造営されています。
寛永寺にある将軍霊廟は、第2次世界大戦の空襲によりほとんど焼失し、勅額門と水盤舎を残すのみとなりましたが、宝塔部分は難を逃れ往時を偲ぶことができます。また、昭和39年に位牌の御安置所として霊殿が復興されました。
厳有院(家綱公)霊廟と常憲院(綱吉公)霊廟の建築物群は、旧国宝に指定されていた貴重な歴史的建造物でありましたが、昭和20年(1945年)の空襲で大部分を焼失。かろうじて焼け残った以下の建造物が重要文化財に指定されています。

  • 厳有院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔
  • 常憲院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔

   いずれも寛永寺霊園内にあり、厳有院霊廟の勅額門は外の道路から見ることができます。

  • 家康公の墓所は静岡県の久能山から日光東照宮奥社に改葬。
  • 家光公の墓所は日光の輪王寺大猷院廟奥の院。
  • 慶喜公の墓所は谷中霊園にある寛永寺の飛地にあります(東京都指定史跡)。
寛永寺 五代将軍徳川綱吉公 勅額門(重要文化財) 寛永寺 八代将軍徳川吉宗公 宝塔 15代将軍徳川慶喜公墓所
5代将軍徳川綱吉公
勅額門(重要文化財)
8代将軍徳川吉宗公
宝塔(重要文化財)
15代将軍徳川慶喜公 墓所
寛永寺概要
所在地 東京都台東区上野桜木1-14-11 他
施 設 根本中堂、開山堂、輪王殿、駐車場、他
宗 旨 天台宗(現時および過去の宗旨・宗派は問いません)
管理・事業主体 宗教法人 寛永寺
備考 悠久の歴史と風格を湛える希少な聖地。
いにしえより桜の地、人々のやすらぎの地として親しまれ、静寂と文化、情緒の漂うここ、上野の杜。「東の比叡山」の異名をとる東叡山寛永寺は、380余年前の寛永2年に創建され、関東屈指の名刺であり、今では都内随一の菩提寺のひとつです。都心に残る珠玉の墓地「東叡山寛永寺」を貴家の菩提寺に。
  寛永寺の霊園・永代供養墓などのお問合せはこちらへ。  TEL:0120-148-296
寛永寺 輪王殿
旧本坊表門を正門とする輪王殿は、多目的な会館として建築されました。使用目的に合わせて前後に2つの会場を備えており、また公共の交通など利便性に優れた式場として多くの方にご利用頂いております。 寛永寺 輪王殿
永代供養墓 光明閣
少子化・核家族化の進展に伴い、個人墓の需要増加の一方で、現在は後継者の不在などにより維持継承が困難な方々も増加傾向にあります。そうした世情にあわせて、平成19年7月に永代供養墓光明閣が落慶いたしました。ご都合にあわせたご納骨供養方法が選択出来ます。詳しくはこちらへ >>> 寛永寺 永代供養墓 光明閣
寛永寺幼稚園
本園は大正13年10月、関東大震災の臨時小学校であった寛永寺国民小学校跡地に開設されました。途中昭和19年6月、戦争の為に閉鎖されましたが、同24年に再開し、80余年の歴史を重ねるなか8千余の修了者を送り出し、現在でも都内有数の幼稚園として保育界に重きをなしています。 寛永寺幼稚園
住所:群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原1053鬼押出し園内
天明3年(1783)の浅間山大噴火により千名以上の人々が犠牲となりました。地元の人々の嘆願により、時の輪王寺宮公延法親王が被災者の救援に手を差し延べられ、住居等の手配が行われました。昭和28年には地元鎌原村の要請に応じて、170年忌の追悼法要を寛永寺住職が親修、歴史的な経緯もあり昭和33年に浅間山観音堂が寛永寺別院として建立されました。御本尊は、寛永寺より聖観世音菩薩像を迎え、噴火犠牲者の霊を鎮めると共に「鬼押出しの厄除け観音さま」として信仰を集めています。
【年中行事】
・御縁日法要 毎月18日
・大祈願祭 春秋二季
・天明供養祭 7月8日
※詳細は直接お問い合わせください。
寛永寺別院 浅間観音堂
アクセス
東叡山 寛永寺 アクセス地図
●交通のご案内
JR「鶯谷駅」南口より徒歩約3分、JR「上野駅」公園口より徒歩約10分
首都高速「入谷出入口」より車で約2分
Google Map 東京都台東区上野桜木1-14-11 他「寛永寺」
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東叡山寛永寺「光明閣」 永代供養墓・納骨堂のご案内

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