寛永寺は、徳川将軍家の祈祷寺として発足しましたが、やがて菩提寺も兼ねるようになり、将軍の御霊廟が造営されることとなりました。當山には6名の将軍(4代家綱公、5代綱吉公、8代吉宗公、10代家治公、11代家斉公、13代家定公)の霊廟がありますが、将軍霊廟の様式は初代家康公のものから時代によりかなりの変化があり、4代家綱公の時に廟を含めた様式が完成し、それは7代家継公まで続きます。霊廟の霊とは、御本尊、位牌、将軍肖像を祀る霊殿部分で、二天門、勅額門、鐘楼、水盤舎、井戸屋形、中門、廻廊、拝殿、相之間、本殿、透塀、仕切門、装束所、を含み、更に仕切門を出ると廟(墓域)になり、そこには唐門、拝殿、中門(鋳抜門)、宝塔がありました。その後8代将軍吉宗公の時に、綱吉公の廟の1部を拡張して、廟部分だけを造り、位牌等は綱吉公の霊廟に合祀して霊殿関系の一切の建物を略したため、以後幕末までこの様式が受け継がれました。霊廟様式では、宝塔はお墓ではなく、将軍は宝塔内に安置されている御本尊の足下で安らぎの眠りにつくという考えから造られています。ですから、鋳抜門の内側はその仏さまの極楽浄土であり、それゆえ門扉に松竹梅や亀甲繋ぎなどの瑞祥紋が附けられています。なお、この家康公以来の歴代将軍霊廟は、天海大僧正の指導により、この宝塔を中心に天台宗の根本聖典である法華経の思想に基づいて造営されています。
寛永寺にある将軍霊廟は、第2次世界大戦の空襲によりほとんど焼失し、勅額門と水盤舎を残すのみとなりましたが、宝塔部分は難を逃れ往時を偲ぶことができます。また、昭和39年に位牌の御安置所として霊殿が復興されました。
厳有院(家綱公)霊廟と常憲院(綱吉公)霊廟の建築物群は、旧国宝に指定されていた貴重な歴史的建造物でありましたが、昭和20年(1945年)の空襲で大部分を焼失。かろうじて焼け残った以下の建造物が重要文化財に指定されています。
- 厳有院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔
- 常憲院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔
いずれも寛永寺霊園内にあり、厳有院霊廟の勅額門は外の道路から見ることができます。
- 家康公の墓所は静岡県の久能山から日光東照宮奥社に改葬。
- 家光公の墓所は日光の輪王寺大猷院廟奥の院。
- 慶喜公の墓所は谷中霊園にある寛永寺の飛地にあります(東京都指定史跡)。
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